①タマノミウジ御嶽
②一の曲輪城門
③ウシヌジガマ
④火の神
⑤殿舎跡
⑥二の曲輪基壇
⑦肝高の御嶽
⑧トゥヌムトゥ
⑨すり鉢状遺構
⑩埋葬人骨
⑪3の曲輪 城門
⑫ミートゥガー(井戸)
⑬ウタミシガー(井戸)
⑭仲間ヌウカー(井戸)
⑮門口のカー(井戸)
⑯南風原御門
勝連城跡の歴史や調査について
■勝連城跡の歴史勝連城は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城として有名である。城は、沖縄本島の中部勝連半島の根元に位置する丘陵上に築かれている。一の曲輪(くるわ)からは、北は金武湾を囲む北部の山々やうるま市の離島を望むことができ、南は知念半島や久高島、護佐丸の居城であった中城城跡が一望できる景勝地になっている。勝連城跡の標高は約60m~98m。総面積は11,897㎡。城壁は、自然の地形を巧みに利用しながら、石灰岩の石垣をめぐらせている。北西の最高部から一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と各平場が階段状に低くなり、再び南東側の東の曲輪で高くなっている。城が立地しているこの場所一帯は、長い間人々が活用してきた土地である。城跡の崖下からは、貝塚が発見され、先史時代後期末から古代人の生活地として利用され、13世紀前後より城塞としての体裁を整えたと考えられている。
■勝連城に関係する人物
阿麻和利(あまわり)
阿麻和利についての言い伝えはいくつかあるが、一説では北谷間切(ちゃたんまぎり)の屋良村(現嘉手納町)の百姓の子といわれている。幼名を加那(カナー)といい、10才まで歩くことも出来ないほど身体が弱く山に捨てられた。加那は山でクモが巣を張るのを見て、漁に使う打ち網の作り方を発明したと言われている。 勝連にたどり着いた阿麻和利は茂知附按司に召し抱えられる。茂知附按司は圧政を敷き酒に溺れたため、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒される。若くして阿麻和利は勝連の10代目の按司となった。阿麻和利は人々から慕われ、海外貿易により力をつけた。時の琉球国王尚泰久は阿麻和利に自分の娘百十踏揚を嫁がせる。
護佐丸(ごさまる)
1416年尚巴志の北山討伐に加わり、北山監守となって座喜味城に移る。その後、阿麻和利や他の中山の按司を見張るため中城城に移ることになる。しかし、1458年阿麻和利に攻められ自害する。
護佐丸は名築城家として知られ、座喜味城跡や中城城跡を現在のかたちにした。両城跡とも世界遺産として登録される。
百十踏揚(ももとふみあがり)
百十踏揚は6代国王尚泰久の娘として生まれ、政略結婚で阿麻和利に嫁ぐことになる。百十踏揚は阿麻和利の計略を知り、付き人の大城賢勇と共に首里に逃げ帰る。阿麻和利は大城率いる首里軍に敗れる。その後百十踏揚は大城賢勇に嫁ぐが、大城も王府の内乱で亡くなる。百十踏揚は玉城(現南城市)に逃れ、ひっそりと余生を送ったと言われている。
察度(さっと)
察度は、奥間大親(おくまうふや)と天女の間に生まれたと伝えられている。察度は、勝連按司の娘が誰とも結婚しようとしないという話を聞き、勝連城を訪ね娘に求婚する。他の者たちは貧しい察度との結婚をあざ笑ったが、娘は察度が他の男と違うことを感じ取り、察度と一緒になった。察度は貧乏人だったが、畑には金塊がたくさんころがっていた。娘はこの金塊の価値を察度に教え、日本の商人から鉄を買い入れ、農民達に分け与えた。民衆達の為につくした察度は、その後中山王となる。
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勝連城跡休憩所
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